第1話「青い前髪、幸運を運ぶ」
「なんか、すごい髪色してましたね」
横を歩く同僚の松下が、コメディ映画でも見た後のようにクスクスと笑っている。
「お前な、人さまの外見を笑うなよ」
そう注意している俺も、内心はおかしくて仕方なかった。ただ、渋谷警察署を出たばかりで、守衛がまだこちらを見ている。そんな気がして、思わず真面目に説教するふりをした。
「でも、だって、見ましたよね? 前髪だけ、めちゃくちゃ青色でしたよ?」
確かに、免許証の写真の男は、見事なまでに前髪だけが青かった。
あの色、私もやってみようかなあと言いながら、松下が先に歩道橋を上りきる。俺もその後に続くと、ライダースジャケットの隙間に、冷たい風が入り込んだ。
つい先程のことだった。俺たちは恵比寿にある得意先から歩いてオフィスに戻ろうとしていて、その途中、たまたま道に落ちていた折り畳み財布を松下が見つけた。
もちろん、盗むなんてことはせず、帰りがてら渋谷警察署に寄って届けることにした。
ただ、こういうときに好奇心は働くもので、申し訳なく思いながら、俺たちはほんの少しだけ中身を確認したのだ。財布の中には免許証が入っていたのだが、その写真には、深く青い色の前髪を持つ青年が写っていた。
「免許証って、三年とか五年とか、長く使うじゃないですか」
「まあ、そうな」
「そんな大事な写真に気まぐれで染めた青色で挑もうとか、思わなくないです?」
松下はいつまでも、そのことで笑っている。
「わかんないだろ。何年も前から、ずっとあの色かもしれないじゃないか」
「あの人、警察行ったらすごい怪しまれそう」
「だから、人を見かけで判断するなってば」
「でも先輩、免許証見たとき『YouTuberにいそう』って言いましたよね?」
「お前だって『顔出しをしてないミュージシャンみたい』って言ったろ」
「じゃあ、二人とも同罪じゃないですか」
松下はまるで自分だけが正解だと言いたげな表情をした。
俺と松下が働くデザイン事務所は、渋谷ヒカリエの8階、会員制のコワーキングスペースの中にあった。社長が立ち上げた小さな会社で、社員は俺と松下だけ。三人でかれこれ四、五年、ヒカリエに住み着くようにして、働いていた。
「いいこと、あるといいなあ」
届け出た財布のことを考えていたら、ふと、心の声が漏れた。エレベーターには、松下と俺しか乗っていなかった。
「いいことって、たとえば?」
松下が、壁にもたれかかりながら訊ねてくる。
「たとえば、財布の持ち主が、お礼に土地をくれるとか?」
「そんな奇跡、あるわけないじゃないですか」
松下は俺の夢を一蹴して、スマホを取り出す。遅めの昼食を取るために、7階に二人で降りた。そして松下がある人物に気づいたのは、レストランフロアのマップを眺めていたときだった。
「先輩、あそこ」
「へ?」
俺を盾にして隠れるようにしながら、松下が誰かを指差した。その指の先に見えた顔に、たしかに俺も、見覚えがあった。
「え、マジで?」
「やっぱ、そうですよね? あの人ですよね?」
正面を向いたときだけ、ハッキリとわかる。
俺たちの目の前を通った男は、襟足と前髪だけ、色が青く染められていた。
「え、どうする、どうする」
男から目を離さずに、松下に訊ねる。見れば見るほど、免許証の男と、顔が一致している。
「先輩、奇跡のチャンスですよ。土地、もらえちゃいますよ」
「いや、そんなわけないだろ」
松下に、物理的に背中を押される。どうせ人違いだったとしても、二度と会わない相手だ。小さく覚悟を決めて、声をかけた。
「あの」
「はい?」
実物の男は、髪色こそ変わらないが、免許証よりも髪は長く、想像よりも背が低かった。必然的に、俺が見下ろすような立ち位置になった。
「もしかして、財布落としてませんか?」
「え」
今度は男の横にいた若い女性と一緒に、返事があった。俺は自分が盗んだんじゃないかと疑われないように、財布を拾ったこと、それを渋谷警察署に届け出たことを伝えた。
すると男は体を震わせて、若い女性にやった、やったと声を裏返しながら叫んだ。
「ありがとうございます! あの、ちょっと俺、取ってくるから! すぐ戻るから! あの、ありがとうございます!」
男はそう言って、急にくだりエスカレーターに飛び乗った。明らかに危険な動きだが、注意する間もなく、姿は見えなくなる。若い女性は一人ぽつんと取り残されて、俺たちも同じように、その場に立ち尽くしていた。
どうするべきか。俺も、横にいる松下も、硬直していた。
何か話さねば、と考えていたところで、若い女性は鞄の中をあさって、何かを取り出した。
「これ、よかったらどうぞ」
「え?」
何かのチケットだった。強く差し出されたので、思わず受け取ってしまった。よく見ればそれは、今日の日付が書かれた、9階のヒカリエホールでの展示イベントのチケットだった。
「え、いいんですか?」
「さっきの人と行くつもりだったんですけど、もういいやってなったんで」
「え、なんか、俺たちのせいで、すみません……」
「いやいや! むしろ、財布、ありがとうございます! じゃあ、ぜひ、楽しんで!」
そう言って、こちらが断るより早く、女性はのぼりエスカレーターに向かっていった。
声をかけたのは、よかったのだろうか、失敗だったのだろうか。
後悔が雪のように積もり重なってきた頃、松下が言った。
「土地までいかないけど、きちんと奇跡、起きたじゃないですか」
手元に残ったチケットを眺める。現代アーティストとして有名な人の個展だ。
本当にこんなもの、貰ってしまってよかったのだろうか。
「あとは、これで元カノに遭遇するとかまでいったら、本当の奇跡なんだけどな」
「先輩」
「何?」
「いい加減、夢見るの諦めましょうね」
松下はすかさず、俺に釘を刺した。
illust : naohiga
*この小説はフィクションです。実在の事象とは異なることがあります。