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連作小説「奇跡は運命と、光へ」第3話

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Column2023.03.09
連作小説「奇跡は運命と、光へ」第3話
Column2023.03.09
連作小説「奇跡は運命と、光へ」第3話
小説家・カツセマサヒコさんによる小説連載。第3話は、第2話にも登場した女性の独白からスタート。テンション低くデートしていた彼女、追い打ちをかけるような出来事でさらに気持ちがしぼんで…。

第1話はこちらから

第2話はこちらから

第3話「後悔の後に訪れるもの」

やっぱりチケット渡さなきゃよかったなあ。

渋谷ヒカリエの上りエスカレーターに乗りながら、一人後悔していた。行くはずだった展示イベントは赤の他人にチケットを譲ってしまったし、デート相手だったトシヤくんは私を置いて、財布を取りに渋谷警察署に向かっている。

自分だけ、手放してばっかりじゃんか。

そもそも嫌な予感は、実物のトシヤくんをひと目見た時からしていたのだ。
青色に染まった前髪を揺らしていた彼は、写真で見るほど格好良くないし、電話で聞くほど好きな声でもなかった。予想していたよりも低い身長に加えて、想像していた以上にだらしない格好をしていた。マッチングアプリで繋がった男子に、どこまで期待していたのだろう。「現実ってこんなもんです」と訴えてくるかのようで、勝手に夢を見ていた自分を怒りたかった。

神泉駅の近くにいいカフェがあるからと案内されて、二人で大しておいしくもないオムライスを食べた。食べている間にお互いの自己紹介をしてみれば、トシヤくんが登録者数二桁のYouTuberだって言うから、ああ、YouTuberってこんな感じなんだなって思ったりして。そろそろ店を出ようとしたところで、「財布がない」と彼が言い出した。

「ごめんごめん、見つけたら払うからさ、一旦立て替えてもらっていい?」

呆気に取られた私が彼の財布の心配をしても「もともと月末でお金もなかったし、カードも財布に入れてないから」と自慢げに言って、その時点でもう、だいぶムリだと思った。

デートに誘ったのは、確かに私からだ。彼が絵画や現代アートに興味があることを知って、嬉しくなって思わず、ヒカリエで開催される展示イベントに誘ったのだった。イベントの主催者は、前から好きな現代アーティストだった。日本のアーティストで好きになった人なんてその人くらいで、作品の実物を直接見られる機会を、楽しみにしていた。でも。

「もしかして、財布落としてませんか?」

その一言で、いよいよおかしくなってしまった。トシヤくんが「やったやった!」と跳ねて喜ぶので、そこでようやく、偶然通りかかった男の人がトシヤくんの財布を拾って警察署に届け出たのだと、認識できた。一緒に展示に行くはずだった彼は「すぐに戻るから」と言い残して、急いでエスカレーターを降りて、あっという間に姿を消してしまったのだった。

ああ、本当に、散々な日。

エスカレーターに流されるようにして、8階に着いた。レストランフロアとは雰囲気がガラリと変わって、どこか緊張感はあるのに、温かみもあった。ふらふらと散策してみれば、貸しギャラリーがいくつかあるらしく、いくつかのスペースで企画展や北海道の物産展などが開かれていた。

こんな場所もあるのか、と吸い込まれるように中に入る。
いくつかの展示を見ていると、工芸品のコーナーにたくさんのお皿が並べられていた。いずれも値札が付いていて、金額を見てみると、ギリギリ手が届かなくもなかった。
気安くは買えない、とわかっていながら、それでも興味が途切れることはなく、かれこれ30分ほど、その工芸品の前にいた。そして、何度も見ているうちに、一つの鉢に、心ごと引っ張られてしまいそうなほど魅せられていることに気付いた。
光沢が重たく、どこまでも深さを感じられる真っ黒な鉢。これに煮物でものせたら、すごく美味しそう、なんて考えていたら、横からふと、声がした。

「それ、やっぱりいいですよね」

すぐ横に立っていた男性は、三十代だろうか。背丈はそれほど高くないけど、とにかく華奢で、女の人みたいだった。そして、その顔には見覚えがありすぎて、思わず変な声が出た。間違いなく、今日私がチケットを譲ってしまった展示イベントの主催者である現代アーティスト、その人だった。
「どうして、ここにいるんですか……?」
声が震えた。それでも恐る恐る尋ねる。その人は少し意外そうな顔をした後、笑みを浮かべて言った
「あ、僕のこと、知ってました? いや、展示って、特にすることないから。フラッとこのフロアに寄ってみただけです。今はただの、お客です。僕のやつ、見に来てくださったんですか?」
今、私は、本物と、本人と、喋っている!
心臓がばくばくとうるさくて、呼吸ができなくなるかと思った。
「あの、本当に行きたかったんですけど、いろいろあって、チケットをさっき、譲ってしまったんです。しかも、知らない人で。財布を拾ってくれたお礼に。あ、財布は、私のじゃなくて友人のなんですけど」
自分でも、何を言っているのかよくわからなかった。それでも、言葉を止めることがもうできなくなっている。
「そんなことあったんですか。大変だなあ、それは」
まったく大変そうには思えないトーンで、その人は言った。
「じゃあ、よかったら、一緒に中に入ります? あ、僕、この鉢買いに来たところだったんで、これは買っちゃいますけど」
「え! いやいや! いいんですか? チケットないんですよ?」
「いいですよ、全然。展示なんて、減るもんじゃないですから。もしかしたら入場券は買ってもらう必要があるかもしれないですけど」
「払います!払います!全然、行きます!」
すでに今日のぶんは完売しているはずのチケットだった。まさかこんなことがあるなんて。ていうか、私、本人と話して、本人に来ていいよって言われてる。こんな奇跡、ある?
「じゃあ、会計するんで、ちょっと待ってて。一緒にエレベーター乗りましょう」
「はい! はい! 待ってます! はい!」
さっき、チケットを譲って本当によかった。
そして、トシヤくんが財布を落としてくれて、本当に本当によかった。
静かに思えていた渋谷ヒカリエの8階が、急に賑やかになった気がした。

illust : naohiga

*この小説はフィクションです。実在の事象とは異なることがあります。

カツセマサヒコ
小説家・随筆家
1986年、東京都生まれ。webライターを経て、2020年、小説家デビュー作となる「明け方の若者たち」(幻冬舎刊)がベストセラーになり、映画化と話題を呼ぶ。近著に「夜行秘密」(双葉社刊)。ananはじめ雑誌連載も多数。 Twitter @katsuse_m Instagram @katsuse_m
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